2008年02月23日

小堀 政一の働きかけ


このような人物の歴史がいまの日本を作ったのですね。

小堀 政一(こぼり まさかず、天正7年(1579年) - 正保4年2月6日(1647年3月12日))は、江戸時代初期の武将。近江小室藩藩主。茶人、建築家、作庭家としても有名であり、遠江守に任じられた事から、一般には小堀遠州(こぼりえんしゅう)の名称で知られている。幼名を作助、元服後、初めは正一、後に政一と改める。道号は大有宗甫、庵号は孤篷庵。正室は藤堂高虎の娘。子に小堀正之、娘(池田重政室)らがいる。

父・小堀新介正次はもともと近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)の土豪で、浅井長政の家臣であり縁戚でもあった。しかし政一が生まれたのは、浅井家が織田信長により滅亡し、正次が長浜城主羽柴秀吉に取り立てられ、秀吉の弟秀長に仕えていたころである。天正13年(1585年)秀長は郡山城に移封され、正次は秀長の家老となり、政一もともに郡山に移った。

このころ秀長は山上宗二を招き千利休にも師事しており、郡山は京・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。小姓だった政一は、秀吉への給仕を務め利休とも出会っている。また父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅した。秀長の死後を嗣いだ豊臣秀保もまもなく没したため、文禄4年(1595年)に秀吉直参となって伏見に移ることになった。ここで政一は古田織部に茶道を学ぶことになる。

慶長3年(1598年)秀吉が没すると、正次・政一は徳川家康に仕えた。正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、備中代官として松山(現・岡山県高梁市)に赴く。慶長9年(1604年)父の死後、政一はその遺領1万2千4百6十石を継いだ。

慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり修築の功により従五位下遠江守(とおとうみのかみ)に叙任される。以後この官位により通称・小堀遠州と呼ばれる。

居所としては、正次の頃から伏見六地蔵の屋敷があったが、六角越後町(三条)にも後陽成院御所造営に際して藤堂高虎から譲られた屋敷があった。また元和3年(1617年)に河内国奉行を兼任となり、大阪天満南木幡町に役宅を与えられた。

元和5年(1619年)9月、近江小室藩に移封され、さらに元和8年(1622年)8月に近江国奉行に任ぜられる。ここに陣屋を整備し茶室も設けたが、政一はほとんど使わなかったと考えられている。元和9年(1623年)12月にさらに伏見奉行に任ぜられ、豊後橋(現、観月橋)北詰にあたる新たに奉行屋敷を設け、その後ほとんどここを役宅として暮らしたからである。

晩年になり、真偽は不明であるが、公金一万両を流用したとする嫌疑がかかったが、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎らの口添えにより不問とされた。その後も伏見奉行を務めながら茶の湯三昧に過ごし、正保4年(1647年)2月6日、伏見奉行屋敷で69歳の生涯を閉じた。子孫は松平定信により、天明8年(1788年)改易の憂き目に逢っているが、旗本としては家名は存続された。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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